書籍・雑誌

2014年11月29日 (土)

「生物のなかの時間」

西川慎一・倉谷滋・上田泰巳による鼎談 PHPサイエンスワールド

2011年10月刊行
2012年夏に入手し、その後眠っていた。
金曜日朝から出張で富山へ。
その往復の車中で読むために持参。
生物学の「今」が展開される。
目が廻るほどのスリル。
心理学が日常生活の常識的世界に縛られているうちに生物学はゲノム分析を起爆剤にとんでもない時空の広がりを遊泳していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年11月28日 (金)

「ダンゴムシに心はあるのか」

森山徹著

書評を拾ってみると、心の定義がよくわからないと、その定義に言及しているものがたくさんありました。
「こころ」は出版社、あるいは編集者からの要望にあわせて用意したことばのようにも見えます。
ダンゴムシも、コウモリも、ニワトリやカルガモも、そしてチンパンジーもニンゲンも、一続きに考える。そして、ニンゲンの方から読み解くのではなく、ダンゴムシの方から読み解く。
そういうことですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 7日 (金)

雑文庫11:内田 樹「下流志向」

学校というところは何をする場所なのだろう。子どもたちはそこに何を期待しているのだろう。そして親たちは。

教育は売り買いされるサービスなのだろうか。そう定義されるのであれば、サービスを提供されるのは誰なのだろう。

あるいは、教育は子どもという材料を投入して社会人に生産する工場なのだろうか。

教育にも市場原理を、教育サービスにも競争原理をということばが飛び交うようになって久しい。

この著者は、

「おのれの幼児的欲望を抱え込んで、決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうあることを要請します。」

という。

子どもたちは人生を踏み出したときから消費者として定義づけられ、その枠内で欲望し、行動することを求められる。

<<彼らは「お前がこれから提供する教育サービスにオレらはまったく期待していないからね」ということを全身を挙げて意思表示している。これはバザールで「さあ、これから値切るぞ」と構えている買い手の構えとまったく同じ>>

この本は一年近く前に出たもの。著者は1950年生まれ。アクセスの多いブログを運営している。

そこでは、子どもは賢い消費者であることさえ求められていない。

PISAの結果が出た。国を挙げて右往左往しているようである。われわれのシステムそのものが「賢さ」を求めていないことを忘れていないか。

このこと、いずれまた、議論しましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月26日 (月)

雑文庫 9;伊藤進 「ほめるな」

このタイトルに、おやと思ったり、まさかと立ち止まる人も多いだろう。

振り返ってみれば、たしかに「ほめて育てる」というコピーがあちこちに出ていた。どれくらい前からだろう。

この本は「ほめるな」というので、その「ほめて育てる」というのと対極にある。

若い人にこの著者は言っている。

「ほめことば」などで自分を安売りするな。

「ほめことば」に頼って自分を切り刻むな。

安売りしない自分、切り刻まれない自分はどこに求められるか。

多分、そこが見つからないからこそ右往左往する。

そこのところは、しかし、そう簡単には教えてもらえない。

このことは、また。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月20日 (火)

雑文庫 8:のだめカンタービレ 19

ドラマ化されたのだめちゃんを見てから、1年も、まもなくでしょうか。

原作を探し、つぎつぎとシリーズの冊を重ね、17、18と追加し、ついに19をみつけて手に入れてきました。

音大という特殊な世界かもしれませんが、大学の「授業」?(このことばに私は未だになじめないのですが)、「学生が学ぶ」ことについて、スリルあるテーマに満ちていました。

のだめちゃんは子どもに音楽を教えるのが夢というので、その指導をどうするかという指導法についても、どのような方法がよいのか、そもそも音楽とはなんであるのか。どのような音楽、演奏がよいのかという本質に関わる問題についても考えさせてくれる「マンガ」でした。

さて、いっぽう、現実の多くの大学生は・・・・

東京大学の研究グループによる、全国の大学生対象の調査結果の一部が新聞紙上に載っていました。かなり大規模の調査のようですから、おそらく全大学生の気持ちを代表してくれている結果なのでしょう。

授業の意義や必要性を教えて欲しい      61%
自分のレベルにあった授業がよい        65%
授業の中で必要なことはすべて扱って欲しい 74%

授業の意義や必要性は自分で見出したい   38%
難しくてもチャレンジングな授業がよい      34%
授業はきっかけで後は自分で学びたい     25%

そして、
意義があった授業では学問の基礎を教えてくれた      55%
              実践的な知識や技能を教えてくれた 50%

これからさき、世の中はますます、こちらの方向へ、ここでの多数派のほうへと流れていくのでしょうか。

のだめの中の指導者たち、音大の学生やヨーロッパの音楽学校で学ぶ学生を指導しているその指導原理あるいは指導が目指しているものは、もっと違っている。そして、学生たち、若者たちの学び方も。多くの取材協力者を得てつくられたのだめのマンガを若い人々はどのように読んでいるのでしょうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年11月15日 (木)

雑文庫 7:パルマー「自分を好きになる本」

なつめしょうこさんの本に続いて、これも「自分自身を受け入れる」ための本。

よい子でいたいと思う心は、自分を否定する気持ちにつながっていくことがあります。

「受け入れてくれる人」を求めて、心がゆれることにもなります。

この本は1977年、アメリカで出版されたようです。

日本語に翻訳されて、径書房という小さいけれど個性的な出版社から世に出されました。

1991年のことです。

私の手元にあるのは1992年、ほぼ1年後に印刷されたものです。

第16刷とあります。

その後もしばしば本屋で見つけました。

今もでているかもしれません。

自己肯定、そして、自己主張のための本です。

易しいけれど、とても難しい本です。

「自分はよい子」という。

そのよい子という自分自身をだれが承認してくれるのか。

それは、「基本的人権」とか、「神による肯定」という概念と結びついていく。

そのことを含んだ「人間の世界」や「宇宙」のしくみについての構想を、私たちは持ちえているのだろうか。

この小さな本を読んでいると、そんなことを考える沼に近づいていきます。

追記: この本、いまだ、版を重ねて、ふつうに入手可能です。

自分を主張しながら、人を傷つけない、そこのところを提示しています。だから、安心して読むことができ、人々を勇気付けてくれるのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月12日 (月)

雑文庫 6:なつめしょうこ「生きているだけで満点」

もう、8年も前の本です。それを、私は知人から受け取りました。

ときどき若い人のために声に出して読みます。一冊しかないからです。

表題のことばは、そのまま最初の詩になっています。

・・・・・・・

あなたは生きているだけで満点です。

そのことを知っていますか。

時々、大人はそのことを忘れるのです。

ですから、あなたは自分で自分の心に言ってあげてください。

「私は生きているだけで満点なのよ」

「僕は生きているだけで満点なんだ」とね。

なぜだと思いますか。

なぜなら私たちは皆この世で生きるために生まれてきているからです。

ですから、生きているだけでまず満点です。

・・・・・・・・

若い友人がこの本を探してみつからなかったといいます。

もともと、この本は著者が丸善名古屋出版サービスセンターというところを通して、ご自分で出されたものだったからです。

ですから、この本を下さった知人は、なつめしょうこさんの知人であったということになります。そのことをずっと以前に私はその知人から聞いたような気がします。

長い間に、生きているだけで満点というのは私の中で自然に響くことばとなりました。

その間に知人のお母様は長い老いと療養の生活を経て旅立たれ、私の母もまた、ことばを失い、生活の完全な自立は難しくなりました。「生きているだけでいいんやから」・・・みずからの老いを受け入れがたい母たちに、すでに老境にある子どもたちが語りかけるそのことばを何度となく聞きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑文庫 5:熊本子どもの本の研究会「日本語の新しい方向へ」

鶴見俊輔、大岡信、谷川俊太郎、覚和歌子、さがゆき、谷川賢作・・・

熊本子どもの本の研究会という恐ろしい会があり、ここに掲げた恐ろしい人々が参集して、話をしたり、歌ったり、しているらしい。そのことを、何年か前のある大きな会の中の催しで知った。そして、この本は、いわば私家版。いや、よくわからないのだ。奥付にある発行所はこの会の名前である。そして、今日はじめてみつけたのに、この本はもう4年も前に出ていたらしい。

この不思議な会については、「この会のこと」という文章を鶴見俊輔が本のはじめの一章としてよせている。平易で引き込まれるふしぎな文章だ。

「・・・考えをとばして述べると、ルソーの「言語起源論」には、言語と音楽との同時発生がとかれている。文学以前の歴史としてはそうだろう。個人の歴史として考えてみても、この仮説はあてはまるように思う。・・・・

こころに沿い、整え順序だてる、そんな役割をしてくれる文章がある。会の創立者横田幸子さんについてかかれた、その中の文章にも、幸せな出会いをした。

「自分とのつながりを通してこの会について書いてきたが、もっと広く熊本子どもの本の研究会の特色を考えると、育つということを中心として進んできた思想運動ではないか。明治初めに中央政府が教育制度を考えたとき、学校翻意に、先生ー生徒を軸として、一年生、二年生という序列を構想した。さらに小学校、中学校、高等学校、大学というふうになる。そこには、教師もまた、そして親も生徒と共に育つという視野が欠けている。0歳の人間が、七十歳、八十歳の人間と共に育つという視野も欠けている。この視野を、これまでの日本の国家教育に付け加えたことに、この会の活動があったのではないか。」

鶴見俊輔の短い文章の末尾から。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑文庫 4:竹下節子「弱い父」ヨセフ

ヨセフとはマリアの夫であり、イエスの血縁のない父である。強い父ではなく弱い父という表現におやと思った。

竹下節子氏にはほかに「聖母マリア」も同じ講談社選書メチエの一冊としてあるらしい。専門はカトリック史。カトリックでは母を描くことが多く、ときにそれは宇宙をのみこむような巨大なマリア像としてしばしば登場する。

「人が母親に愛され母親を愛することは、母親にもらった自分のいのちを一種の人質に取られることでもある。だから母子は共依存の関係に陥りやすい。互いの重さがどこまでも増していくかもしれない。

人がほんとうに自立するには「母親以外の人間」に肯定されることが必要だとしたら、父とは、子供を絶対肯定する、母親以外の大人の別名なのだろう。ある人がまだ弱く小さい時に、その存在を肯定し受け入れることで、母親以外のすべての人がその父になれるのだ。それは、きっと、聖ヨセフが私たちに遺し、伝えてくれたことのひとつに違いない」

おわりにと題した末尾の短い文章のなかから本の一部を掲げた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑文庫 3:荒井千暁 勝手に絶望する若者たち

東京へ日帰りの仕事。午前中に新幹線に乗り、車中で食事をし、午後一杯の会議に出席。帰路、中継地で新幹線の予約をとると少し待ち時間があった。乗車駅の内部にある丸善の出店で車中で読む本を選んだ。

著者は未知の人物であったが、1955年生まれ。「産業医」という仕事を続けてきた方のようである。タイトルは出版社がつけたものだろう。そうはいっても、年長者の方からの若者へのまなざしは、もともと著者にもあったはずである。当の「若者」は「絶望する若者たち」などと表現されることを喜ばないかもしれない。

経済戦争での敗戦とは、バブル崩壊を指してよく使われる表現である。それが戦争であったかどうか、さきの太平洋・アジアへ向けての戦争とどこまで類似しているかはともかく、まず、急激な「自我」「国民意識」の膨張があり、その現実主義的な縮小が続いたという現象をいずれの場合にも指摘してよいだろう。

先の戦争においてはその後、戦中派とか、第一次戦後世代、第二次戦後世代、などという表現も使われた。そこを、いったい何歳で通過したかによって。そして、彼らは相互にさまざまな軋轢を経験したらしい。

現在仕事についている人々も、世代ごとに大きな時代の渦のなかにあった。その例を私たちは身近にいくつも知っている。その渦のありか、渦のなごりを、荒井氏は職場という中での相互の関係として描く。

「最近になって、仕事のことや働くことを考える機会が増えた途端、生きていることのあっけなさを身近に感ずるようになった。・・・」これは、荒井氏のあとがきから。

新幹線は3人席の奥であった。横の二人は首都圏の大きな地図を広げ、アパートの図面をひろげ、額をよせあっている。引越しの準備らしい。駅までの距離、交通機関の乗り換え、家賃を比較しながら溜め息をついている。まだ30前後に見えるその夫婦のこれからの歳月に思いをめぐらした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)